絶対に体罰は肯定できない (2022年1月)

(この雑文を最後まで読んでもいい話で終わったりしないから、いい話が読みたい人は読まない方がいい)

保護者が子どもに暴力をふるうことを世間では「体罰」と呼んでいるので、標記ではその語を用いたけど、親の側の動機は腹いせまたは嗜虐であって、冷静に子どもに何かを教えようとする態度ではない。教師など親以外の体罰も論外だが、今回の文章は親以外の話はしない。

体罰がなぜいけないかといえば、親子関係が修復不能になるから。

そうではない場合もあると主張したい人がいても、わざわざ私のところに伝えにくる必要はない。断っておくけどもしツイッターでそういう話を言ってくる人がいたら、ブロックするからね。

親の体罰の件を話した人は今まで数人程度だが、詳細を具体的に話してもいないのに1人を除き全員が脊髄反射的に親の味方をした。その1人は現在に至るまで最も大切な友人だ。親を擁護した残りの人たちに関しては、私に人を見る目がなくて、個人的な話をするべきでない相手にしてしまったということで仕方がない。

私の父親は小学校教師で給料も高くないのに子どもを大学に行かせるのは経済的に大変だったと思う。やはり元教師で専業主婦だったり部分的に賃労働したりしていた母親は、毎日食事を作ったり掃除したり、子どもたちを時には遊園地や旅行にも連れていったり大変だったと思う。

大変だったんだろうなとは思っても、殴られた子どもはその後、親に対して優しい気持ちになれない。

母親が私を叩くとき、よく「お父さんそっくり」と怒鳴った話をしたのが前回。この動機は夫との関係が原因で、子どもを殴るのはやつあたりだ。夫を攻撃できない(したくない)から、力関係で劣る子どもを代償行動的に攻撃した。

その他いつも「肝煎れちゃうね」と怒鳴っていて、この語は他の人から聞いたことがないけど腹が立つという意味の千葉方言だ。母親は中野の新井薬師の近くで生まれたようだが子どものころ家が千葉に引越して千葉方言を話した。

これは腹が立つからイライラを発散してスッキリするために子どもを殴っていることを端的に認めた発言だ。

なのに動機を糊塗するためいつも「可愛いから怒るんだよ」と嘘をついていたから、たちが悪い。

日常的に暴力をふるいながら言葉では可愛いからとか矛盾したことを言うのは子どもが混乱する。言うこととすることが違う場合、行動が真意で言葉は嘘だ。腹いせで殴っていることを認めたくないから躾の名目で正当化した。

殴っている子どもに対して自分の行動を正当化したというより、自分自身に躾だと思い込ませてまで子どもを殴るのをやめられなかったわけで、当時よりは子どもが大事にされるようになった現今であれば、カウンセリングをすすめられるんではなかろうか。

そういえば小学校の作文に「動物じゃないんだからたたいたりけったりしないでほしい」と書いたこともあるのに、教師は何もしてくれなかったよ。昔は酷かったね。

ちなみになぜそんなにしょっちゅう叩かれたかというと、毎回何らかの理由(トリガー)があったはずだ。私が何か親の気に障ることをしたんだと思うが、ひとつも覚えていない。叩かれたことしか覚えていないから、暴力は全く躾の役に立っていない。

と書いていたらひとつだけ思い出した。どこか旅行先の駐車場で、毛糸のマフラーを水たまりに落としたことを。旅行に行くと怒られるから、小3くらいから私は家にいることにして、旅行には両親と妹だけで行くようになった。

時々母親の肩をたたくよう言われてたたいたのだが、私が肩をたたいている間に腹の立つことを思い出し、肩をたたかれながら怒鳴り出して「怒ってると余計肩張っちゃうよ」とまた怒鳴った。だから別にトリガーはなくても私が近くにいたから怒ったり殴ったりしただけなのかもしれない。

何年にもわたる体罰によって学んだことは、自分を保護してくれるはずの親が、可愛いからとか意味不明な言い訳をしながら理不尽に暴力を振るうことがある、という生きていくうえで特に知る必要のない事実、というか単純な誤りだけで、ほかには何ひとつない。

親子関係が修復不能というのは、最後まで取り返しがつかないということだ。

母親に「顔見なければ腹も立たないんだから早く出ていきなさいよ」と怒鳴られていたので、18歳くらいで家を出たが、数年後事情があっていったん戻り、25歳くらいでまた家を出た。

就職してその後地方から東京の本社に戻るとき、母親が「また家から通う?」と言ってきたので耳を疑った。早く出ていけと言ってたこと、よく忘れられるね。

私は25歳くらいで家を出てからほとんど実家に行かなかったが、いまから10年以上前、母親が癌で死にかけていたとき病院に見舞いにいった。

母親が皆でお風呂に入りたいと言い出して、妹が看護師さんに頼んでベッドに寝たまま病院の浴室に運んでもらった。私は妹の手前嫌だと言えず困っていたら、浴室の前まで運ばれたところで母親が疲れて無理だと言ったので、一緒に入浴せずに済んでほっとした。

それと同じ日だったか覚えてないが、病室で母親は私に「ごめんなさい」と言った。

私は非常に戸惑った。母親は自分が子どもたちにしたことのうち、良いことしか認識していないし覚えていないと思っていたから。「出ていけ」と言ったことも都合よく忘れていた。

そのすぐあとに延命治療をやめて母親は喋れなくなった。つまり返事ができなくなってから、私は「お母さん、大好きだよ」と言った。

表情から、私の言ったことが聞こえてしかも理解したのがわかった。それは想定外だった。何か言おうとするのを見ていられず、自分の嘘がいたたまれず、すぐ病室を出た。

病院の夜間付き添いは妹と叔母で定員になったから、私はそのあとは母親に会わなかった。たしか母親はその翌日くらいに死んだ。

私の振舞いは、死にかけた人に対していくらなんでも酷かったと思い、その後数年間悪夢の原因になった。

それでも、あのとき母親の手を握ったりあと数分嘘をつき続けるかして、最後に母親を安心させることはできなかった。今でも無理だ。

赦すとか赦さないとかそういうことではなく単にできない。その人に対して人間らしい気持ちを持つための回線のようなものが切れていてつながらないからだ。

その回線のようなものを私は子どもの頃に切断したんだと思う。再びつなげるのは母親に対する感情を意識することを意味し危険だからできない。

こうやって書いてきてわかった。おそらく私はあのとき、あれ以上病室にとどまったなら死にかけた母親に対して罵るとか下手するとたたくとかけるとか、そういうことをしそうになっていた。だから慌てて逃げ帰ったんだ。

仮に私がそのような行動に出たら、妹を困らせることになっていただろう。そうならなくて本当によかった。

人は自分より弱く反撃されるおそれのない相手を攻撃しがちだ。気をつけたい。特にそういう扱いを当然のように受けて育った子どもは。

2022/1/5

〈追記〉

予約投稿していたこの文章が投稿されたので、読み返して気がついた。こういう扱いを受けて育って、学んだことはもうひとつあった。

(特に女性は)「経済力を手放してはいけない」ということ。自活できる経済力があれば、殴ったり言葉で虐待する人と一緒に暮らさなくて済む。

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