人間関係の損失だったかもしれない(2022年11月)

以前辞めた会社で、辞めた理由は労働条件の変更だったのだが、部の皆は生活があるからだろう、私の他に辞めた人はいなかった。

辞める直前に、Fという副部長に「申し訳なかったと思っている」と言われ驚いたことを、さっき急に思い出した。

部の労働条件変更の事情は上から降ってきたもので、副部長には責任がない。だから当時は何を言ってるのだろうと意外にしか思わなかった。

あれはFさんの思いやりから出た言葉だったんではなかったか?

Fさんは順当に次は部長だろうとみられていたのだが、辞めたあとで他の人から聞いたら、部長には別の部署から来た人がなったらしい。

他人を踏みつけて上に行くのを潔しとしない、いい人は出世しない。もしかしたらいい人だったのかもしれないと、何年も経った今になって急に思い当たった。

そしてもしかして私は、今までそんなふうに、自分に対して温かい思いやりを伝えてくれた人たちを、単に不審に思うだけで真意を汲むことがなかったのかもしれない。

だから、それをきっかけに親しく率直に言葉を交わすようなこともなかった。今までずっと、人間関係の損失をやらかしていたような気がする。

Fさんとは仕事の最小限の話しかしたことがなかった。もしかしたらもっと親しく会話をしてもよかったのかもしれない。

他人を、別に全面的に信用したり頼ったりしなくていい。穏やかに意気投合する、そういう感じのマイルドな信頼関係を、機会があれば今後は除外しないようにしたい。

取りとめなくそんなことを考えていた。

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久しぶりにこの雑文を書き散らしたブログを何本か見返して、子どもだった私が親との関係に傷ついていたことは間違いない。しかし親との関わりよりずっと長い時間が経てば、少しずつでも傷は癒えていく。それも確かなことだろうと思った。

人間不信を永遠に引きずっていく義理はない。

親との関係で傷つく子どもは大勢いる。しかしありきたりだからといって問題が軽少とは限らない。こういう場所に書けるようになったのは、長い時間をかけて親がかけた呪いからある程度は解放されてきたんだと思う。

2022/11/17記

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